以前、アニメとゲームのフラダリは違うのではないか?という仮説を立てましたが……今回は、(フレア団の過去が明らかにされた今、)本格的に違いについて考察してみたいと思い、この記事を書きました。
整理と考察:フレア団の過去その②ともいえると思います。(ちなみに、その①にあたるのはこの記事です。)
ゲームのフラダリも、アニメのフラダリも、社会的な評価でいえば、きっと同じになるんだと思います。
けれど、上記したように、2人はこれだけ異なっている。(……違いの数が、客観的に多いのか少ないのかはわからないんですが。)
違いがあれば、それだけ2人の世界の見え方がどうなっているのかわかると思いますし、その結果、社会的評価だけでは見えなかったものも見えてくるのではないか……そう感じます。
――――――――――
(参考)
ゲーム:ポケットモンスター X、Y
最強メガシンカ:ACT2~4
ポケットモンスターXY&Z:1話、9話、10話、14話、36話、39話、40話
整理と考察:フレア団の過去その②ともいえると思います。(ちなみに、その①にあたるのはこの記事です。)
①助ける対象の条件
アニメの方のフラダリは、40話での回想シーンで分かる通り、「苦しんでいる」です。それ以上でもそれ以下でもありません。(このページを参照)
対して、ゲームのフラダリは、「苦しんでいる」ということに加え、「奪われている」という条件が存在します。
これは、ゲームでのフラダリは人を助けていた頃から“醜い”と感じるような人を除外していたのに対し、アニメではそういったことはされていない、ということです。
そして、それはつまり、アニメでのフラダリは、自身が語った過去の中に、選別的になる要因があった可能性が極めて高いことを意味します。
そして、それはつまり、アニメでのフラダリは、自身が語った過去の中に、選別的になる要因があった可能性が極めて高いことを意味します。
助ける対象は、「新しい条件(=愚かな人々は対象外)」でも異なっています。それはなぜかというと、フラダリが「「醜い」と感じた人々の様子が異なっているためです。
ゲームのフラダリが「愚か」と感じた人々は「奪われた側だったが、奪う側に回った」、アニメ版では、「自身の権利を主張し、助けを当然とし、強く要求した」。フラダリの注目した点が、前者では「奪い合う」、後者ではある種の「エゴイズム」になっているんです。
言葉は同じ「愚か」で、新しい条件は「愚かな人々は対象外」……けれど、2人の「愚か」の定義が異なる故、新しい条件も別物と言えます。
②人を助けていた時の仲間
アニメ版では、フラダリの過去回想から分かる通り、今のフレア団のメンバーがそうでした。しかし、ゲーム版では“ポケモンと”ともに人助けの旅をしていたので、仲間は「ポケモン」であると考えて良いでしょう。
ここから、他のフレア団のメンバーに対しての認識の違いに加えて、フラダリ自身の「ポケモンの概念」の違いが指摘できます。
まずフレア団のメンバーについてですが、メンバーを集めた経緯からすでに明白です。ゲームではフラダリが「新しい条件」を作ってから仲間になりましたが(フレア団のメンバー=愚か)、アニメでは「新しい条件」が出来る前から仲間でした(フレア団のメンバー≠愚か)。
次に、ポケモンの概念についてです。
これは、先ほど挙げたフレア団のメンバーの違いが、真逆になります。(ゲームでは「痛みを分かち合った存在=ポケモン」、アニメでは「可能性を秘めた存在=ポケモン」、支配の力を弾いたサトシゲッコウガを、目撃した様子から。)
これは、先ほど挙げたフレア団のメンバーの違いが、真逆になります。(ゲームでは「痛みを分かち合った存在=ポケモン」、アニメでは「可能性を秘めた存在=ポケモン」、支配の力を弾いたサトシゲッコウガを、目撃した様子から。)
この2つを合わせて考えると、2人がそれぞれ見ている世界の構造が異なっている可能性に気づくことが出来ます。
ゲームでは、人もポケモンも同じように世界に点在している。
アニメでは、世界の中心には人がいて、それらを取り囲むようにしてポケモンが存在する。
そしてこの構造は、2人が描こうとしている「新世界」でも続いていくはずです。
③選ばれた者の使命はどこで発揮されるか
選ばれた者としての使命感・義務感の違いは、以前整理しましたが(ゲーム>アニメ)、発揮されるポイントも異なっています。
アニメのフラダリにとって、「選ばれた存在」は自分達フレア団と、サトシとアランでした。(サトシとアランは、後に対象外になりましたが。)アランやフラダリ達は選ばれた人類で、具体的に「○○せねばならない」というフラダリの発言はありません。選ばれた人類の中からさらに選ばれた存在であるサトシには「導」という役目がありますが、その役目は、新しい世界になった“後”に動くものです。
それとは対照的に、ゲームのフラダリの場合、一言でいえばノブレス・オブリージュ……“持てる者の義務”、“選ばれたからにはその役目を常に全うしなくてはならない”、という感じです。(たとえば、女優であるカルネに対しては、美しくあり続けるのが女優の義務、と語っています。)過去・現在・未来の全てが対象時間となります。
使命の対象時間の違いから、それぞれが目指した新しい世界というのはどんな感じになるのか。
それぞれ例えを使うのなら、ゲームは良いものは続き悪いものは滅ぶ「規則正しい生活」、アニメは心機一転の「ワクワク新生活!」という感じでしょうか。
(前者は「使命=日課」と置き換える、後者は自身の新生活がスタートしたとき、色々買いそろえた事を思い出していただけると分かりやすいと思います。)
④“神の力”の扱い方
ここでいう“神の力”というのは、ゲームでは「古代兵器」、アニメは「ジガルデの力」が該当します。
ゲームでは「何を捨て、何を選ぶかを決めるのは人間ではない」のならば、神の力を使おう、ということでした。
②でも述べた通り、こちらのフラダリの世界の構造は、「人とポケモンが点在している」というものです。どちらかが中心ではなく、どちらも中心にある。そういう認識であったと考えられます。ポケモンに委ねた、と言っても過言ではないでしょう。
②でも述べた通り、こちらのフラダリの世界の構造は、「人とポケモンが点在している」というものです。どちらかが中心ではなく、どちらも中心にある。そういう認識であったと考えられます。ポケモンに委ねた、と言っても過言ではないでしょう。
けれども、アニメの様子を見るに、ゲームとはかなり違うことが分かります。アニメでは、言うならば“二人場織”という感じです。
この2つを整理すると、ゲームでは“天命”、アニメではただ単純な“世界を変えるための力”となると思います。
ゲームのフラダリも、アニメのフラダリも、社会的な評価でいえば、きっと同じになるんだと思います。
極端、視野が狭い、人の醜い面を見て変わってしまった人物、愚か
……などなど。
けれど、上記したように、2人はこれだけ異なっている。(……違いの数が、客観的に多いのか少ないのかはわからないんですが。)
違いがあれば、それだけ2人の世界の見え方がどうなっているのかわかると思いますし、その結果、社会的評価だけでは見えなかったものも見えてくるのではないか……そう感じます。
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(参考)
ゲーム:ポケットモンスター X、Y
最強メガシンカ:ACT2~4
ポケットモンスターXY&Z:1話、9話、10話、14話、36話、39話、40話
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